山頭火と並ぶ俳人・大橋裸木と阿保
去る10月26日地元青山公民館で北出楯夫さんに「山頭火と並ぶ俳人・大橋裸木と阿保」と題し御講演いただきました。地元阿保の町に住んでいた俳人ということで興味を持たれた方も多かったようです。
大橋裸木(明治23年–昭和8年)は自由律の俳人です。自由律俳句というのは季語にも五・七・五に捉われず自分自身でリズムを作る俳句です。俳句が自己表現のための短詩形文学であるならより自由に表現できるべきであるとして自由律が提唱されました。
自由律の俳人として有名なのは種田山頭火と尾崎放哉です。
山頭火の
・てふてふひらひらいらかをこえた
・分けいっても分けいっても青い山
・うしろすがたのしぐれてゆくか
放哉の
・咳をしても一人
・いれものがない両手でうける
など良く知られています。
そんな山頭火や放哉と同時代に裸木は活躍しました。
自由律俳句運動を牽引したのは荻原井泉水ですが裸木は井泉水が主催していた自由律俳句雑誌「層雲」の選者をしていました。また作品も「現代俳句大観」や「層雲作品選第一」では山頭火や放哉よりも多くの句が掲載されています。
自分の句集は4冊その一冊は阿保で出版しています。「一茶俳句全集」なども出版しており、俳句研究も熱心だったようです。
裸木は大阪の生まれですが結核を患い妻の実家奈良県曽爾村に療養にきます。しかしあまりに寒く不便なので伊賀市阿保大村神社のすぐ下に移り、ここで1年半ほど暮らしました。そのあと更に津の内科医を頼り移りますが、最後は京都でなくなりました。当時の結核は不治の病、43歳でした。
裸木は層雲の指導者として多くの句会を指導していました。時には実際に句会に参加し指導したそうで、その時は元気に喋りまくり「これがあれ程病気で有名な裸木氏か」と驚かれたようです。裸木は層雲の運営には欠かせない人物だったようで井泉水もその死を惜み「裸木亡き後に裸木なし。裸木は『層雲』の宝だった。彼がいると誰もが句会の楽しさを感じた。こういう風な指導者は今日一人もいない。第二の裸木がいたならば『層雲』の編集を、心置きなく一任することができるだろうに。」と嘆いています。
以下裸木の俳句です。
・冬夜の静けさ縦横に足袋つづくる
・蛙の声の満月
・冬の蝶を見失った陽の中
世界で一番短い俳句の作者としても有名です。
・陽へ病む
次は阿保で読んだ句です。
「月夜となると東から西へすっとこの町」
井泉水が見舞いに来た時の句です。
「一つの火鉢に手をかざしあっただけのお別れ」
こんな楽しい句も読んでいます。
・ちんぽこに西瓜の雫たらして子の機嫌よし
・涼む子のおそそが見えたりして涼しきかぎり
今回の展示では大橋裸木の直筆の掛け軸や資料の他、種田山頭火の直筆色紙、尾崎放哉の直筆句稿、荻原井泉水の箱書なども展示しています。