開館10周年特別展「大観 玉堂 龍子〜近代日本画三大巨匠」は終了しました。
2025/11/14㈮〜12/15㈪


ごあいさつ
伊賀市 ミュージアム青山讃頌舎は、前身の青山讃頌舎美術館を水墨画家 故 穐月 明が開館してから10年となる記念の年を迎えました。この期間に多くの方に支えられ、様々な展覧会を通じて、たくさんの来館者にお越しいただき、皆様に愛され、親しまれるミュージアムとして現在に至ることに深く感謝を申し上げます。
この度、公益財団法人岡田文化財団、パラミタミュージアムのご協力のもと、開館10周年記念特別展「大観・玉堂・龍子-近代日本画三大巨匠-」展を開催する運びとなりました。
近代日本画を代表する三人の画家、横山大観(明治元年-昭和33年)・川合玉堂(明治6年-昭和32年)・川端龍子(明治18年-昭和41年)。彼らはそれぞれ異なる活動の場を持ちながらも、互いに交流し刺激を与えながら、三者三様の画境を切り開きました。
大観は日本美術院において、「朦朧体」などの技法や表現を探求し、日本画の近代化を推し進めました。
玉堂は官展を中心に活躍し、伝統的な画法を基礎としつつ新たな日本画の表現を確立し、自然への深いまなざしによる風景画を描き続けました。
また、龍子は青龍社を創立し、大画面による表現で、従来の「床の間の絵」としての日本画から開かれた公共の芸術へと切り拓きました。
本展では、新しい時代に即した日本画を模索し、その近代化に大きく寄与した大観・玉堂・龍子の作品とともに、明治以降の日本画の歩みをお楽しみください。
公益財団法人伊賀市文化都市協会
●ギャラリートーク
作品の解説を交えながら、近代日本画三大巨匠について説明いただくギャラリートーク
日 時 11/16日 13:30〜
会場 展示室
講師 衣斐唯子(パラミタミュージアム学芸員)
定員 先着 20名程度(予約制)
●茶室「聴樹庵」で紅葉と「茶」を嗜む
茶室「聴樹庵」の庭全体を覆う美しく色付いたいろは紅葉の下で気ままにお茶を一服召し上がれ。
日 時 11/15㊏・22㊏・24㊊振・29㊏
10:00~ ②11:00~ ③13:00~ ④14:00~
呈茶代 400円(お抹茶・お菓子)
会場 茶室「聴樹庵」 定員 各回先着 12名(予約制)
「お申込み・受付]青山ホール電話 0595-52-1109にて申込受付
明治の日本画革新運動
明治維新によって欧米の制度や技術とともに西洋美術が流入してきた。
当時の日本には、近代的な意味での「芸術」という概念がまだ十分に根付いておらず、絵画と工芸の区別は曖昧であった。
アメリカから来日したアーネスト・フェノロサは日本美術の価値を高く評価し、岡倉天心とともに、西洋絵画に対抗しうる近代的な「日本画」の創造を目指した。
彼らは、西洋絵画の写実性や立体感を学びながら、日本画の線描・明暗・色彩表現を改良し、精神性と奥行きを備えた新しい絵画を模索していた。
横山大観、川合玉堂、川端龍子は、こうした流れの中でそれぞれ独自の道を切り開き、日本画の新しい地平を築いた代表的な作家と言える。
三人は異なる方向で活動しつつも交流があり、晩年には「三巨匠展」を開催。「雪月花」「松竹梅」といった主題を設け、昭和27年から6年間にわたって玉堂が亡くなるまで続けられた。

横 山 大 観
Yokoyama Taikan
1868年~1958年(明治元年-昭和33年)
茨城県出身。本名秀麿
文化功労者、文化勲章、朝日文化賞、勲一等旭日大綬章受章者
岡倉天心の指導を受け、日本画の新しい表現を切り開き近代日本画を先導した日本画革新の中心人物。
明治22年東京美術学校に第1期生として入学、当時の校長 岡倉天心や教授 橋本雅邦の熱心な指導を受けた。
明治31年、岡倉天心が中心となった日本美術院設立に参加、岡倉天心が主導した近代日本画の革新に尽力し、菱田春草らと共に日本画の新たな表現を開拓し日本画壇を牽引していく存在となっていく。最もよく知られているのは「朦朧体」と呼ばれる技法で、岡倉天心から空気を表現するというテーマを出され、従来の輪郭を描き彩色する技法から、輪郭を廃し、色のぼかしによって空気感を表す新しい画法を生み出した。その後も日本美術院で更なる工夫を重ね戦後に至るまで日本画壇の重鎮として活躍し続けた。
また、強い愛国心の持ち主だった大観は1500点にもおよぶ富士山を描いたとされる。
昭和12年に文化勲章が制定され、近代日本画の発展に大きく貢献したとして最初の受章者となる。
代表作に「無我」「生々流転」「雲中富士」「瀟湘八景」などがある。

「神国日本」横山大観
愛国精神に溢れていた大観にとって、富士は神国日本の精神を象徴的に示す重要な題材であった。特に戦前から戦中にかけて国威発揚の風潮とあいまって多くの富士を手がけたが、タイトルから考えてこの頃の作品と考えられる。
神々しい雲海が広がる中に純白の冠雪が映え、濃い色で描かれた峰のコントラストが美しい。
大観は戦後も富士を描き続け生涯に1500点にも及ぶとされ、絶筆も「不二」であった。
晩年新聞インタビューで、「富士の美しさは季節も時間もえらばぬ。春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、しかし、いつ、いかなる時でも美しい。それは、いわば無(果てしなさの意)の姿だからだ。私の芸術もその無を追う。私はなおこれからも富士を描きつづけるだろう」と語っている。

原本 大正12年第10回院展出品作品 重要文化財
絹本墨画、画巻、東京国立近代美術館蔵
「生々流転」横山大観
全長40メートルにもおよぶ水墨で描かれた長大な絵巻物。
天から降った雨の一滴が集まって渓流となり、川へと成長し、さらに大河になって大海に注ぎ、最後には飛龍となって天に昇る。その間、鹿や猿などの生きものや舟などが描きこまれ、流転する水の一 生が描いている。「生々流転」とは「万物は永遠に生死を繰り返し、絶えず移り変る」という意味で、天に昇った龍は再び雨の一滴となって新たな一生を送るという大観の禅的世界観が読み取れる。
大観が長年研究してきた水墨表現の集大成であり、再興第10回日本美術院展の出品作。展覧会初日に関東大震災に見舞われながらも、無傷で回収されたという逸話をもつ。
現在、重要文化財として東京国立近代美術館に収蔵されている。

川 合 玉 堂
Kawai Gyokudou
1873~1957年(明治6年-昭和32年)
愛知県出身。本名芳三郎
文化功労者、文化勲章受章者
フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章、ドイツ政府から赤十字第一等名誉章授与
明治6年に愛知県の現在の一宮市に生まれ、幼少期から絵に対する頭角を現す。14歳のときに京都に移り、その時から円山・四条派に学び、写生を重んじる伝統的日本画の技法を身に付け、17歳にして第3回内国勧業博覧会に出品して早くも入選を果たしている。
明治29年、橋本雅邦の「龍虎図」に感銘を受け東京に移住、橋本雅邦に師事し設立時の日本美術院に参加。しかし線描を研究していた玉堂は、朦朧体による色彩表現を追求していた横山大観らとは方向性を違え、日本美術院から離れていく。
大正4年からは東京美術学校日本画科教授、大正6年には帝室技芸員に任じられ、日本画壇の中心的存在の一人。
画風は四条派の柔らかな写生表現に、狩野派の精神性と構成力を融合させ、美しい墨線と彩色で四季の山河とそこに生きる人々や動物を描き、叙情性豊かな風景画を生み出した。
晩年は東京の西多摩郡三田村御岳(現在:青梅市御岳)に疎開し、その地の自然を愛し続けた。

「麦刈る水車場」川合玉堂
純朴な詩情あふれる風景画に独自の境地をひらいた川合玉堂らしい作品。
円山・四条派を基礎とした写生を、狩野派に学んだ巧みな水墨の筆線で表し、落ち着いた色調のグラデーションで彩色することで、空気感まで感じられる豊かな情景を生み出している。そこに生きる人々の営みが、自然と一体となって情感たっぷりに描かれている。

川 端 龍 子
Kawabata Ryushi
1885~1966(明治18年-昭和41年)
和歌山県出身。本名昇太郎。
文化勲章受章者
3人の中では最も若く横山大観・川合玉堂と10歳以上離れている。
明治28年、10歳の頃に家族とともに東京へ転居。18歳で読売新聞社が公募した「明治三十年画史」に入選をきっかけに本格的に画家を志す。当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を学んでいたが、洋画を学ぶために渡米したボストン美術館で鎌倉時代の絵巻物『平治物語絵巻』などに感銘を受け、日本画に転向した。
独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで大正6年に横山大観率いる日本美術院同人となる。しかし、室内で鑑賞する繊細で優美な「床の間の芸術」としての日本画が好まれていた当時、龍子の激しい筆致は一部から批判を受けた。
その後、昭和3年に日本美術院同人を辞し、自ら「青龍社」を創立。大画面の作品によって、従来の“床の間の絵”から公共空間にふさわしい“会場芸術”としての日本画を提唱し、独自の道を歩んだ。
規格外のスケールと大胆で豪快な表現の革新的な作風は、今もなお魅力に満ちている。

「雷神」川端龍子
この作品には激しい色使いと筆致による、従来の日本画にはない斬新な表現が見られる。
龍子はもともと洋画家を志しながら、生活のため出版社で挿絵を描いた時期がある。
この作品の斬新さは洋画家を志した経験に由来する新感覚と、挿絵で培った造形感覚が反映されていると考えられる。また、尾形光琳を研究していたことでも知られ、本作もその主題への敬意を込めた作品とみられる。
日本美術院同人を離れ、「会場芸術」を掲げて青龍社を創立した龍子の、革新性と迫力をよく示す一作。

「書 簡 帖」川端龍子
川端龍子の書いた葉書を貼り付けた「書 簡 帖」。ほとんどが年賀状やお礼状のようで明治生まれを感じさせる崩し字と古風な言い回しで書かれている。添えられた直筆の絵が楽しい。
【訳 文】
『紅葉の葉書』
啓上、御芳志の山香御恵送頂き万謝の事に御座います、
早速賞味致しました処ついついご挨拶申遅れて欠礼の仕様御海寛(かいかん)願上げます。草々
龍子 十月十九日
『松茸の葉書』
これやこの庭より続く茸山の
御芳志賞味、万謝致しました、寸楮(すんちょ)御挨拶迄
龍子 十月一日
主催:公益財团法人伊賀市文化都市協会
協力:京都 豊国神社・京都市立芸術大学・一般財団法人 東洋文化資料館靑山讃頌舎
後援:伊賀市・伊賀市教育委員会
助成:公益財団法人岡田文化財団

