文化財公開特別展「松風庵一志~藤堂豊前家と楽焼の魅力~ 」は終了しました。

2026/1/8㈭〜2/15㈰ 

藤堂藩の重臣であった藤堂豊前家に生まれながら、その作陶活動が高い評価を得ている松風庵一志。
一志の武士としての生涯、一志が伊賀上野城の土で造った楽焼の魅力を紹介します。

決して有名では無いけれど、マルチに活躍した江戸時代の重臣という伊賀市のミュージアムでしか展示出来ない展覧会です。


伊賀市 ミュージアム青山讃頌舎
〒518-0221 三重県伊賀市別府718-3
観覧料 一般300円 高校生以下無料

GALLERY TALK 展示解説
「藤堂豊前家と松風庵一志の生涯」

日 時 1月17日㊏ 13:30~
会 場 伊賀市 ミュージアム青山讃頌舎 展示室
講 師 山本 厚 氏 (伊賀市教育委員会文化財課)
定 員 20名 (予約制) ※観覧料が必要となります。
[お申込み・受付]

種生常楽寺大般若法要見学会

種生神社に隣接する常楽寺の大般若経転読の法要を見学します。
*常楽寺の大般若経は国重要文化財で平安時代を中心に天平時代から江戸時代にかけての書写の大般若経です。その大般若経を実際に使って転読法要が行われます。
*常楽寺は近くに兼好塚があり、徒然草で有名な吉田兼好を偲んで全国から多くの文人墨客が訪れたところです。奉納された他の文化財も見られるかもしれません。
日 時 2月11日㊌㊗
13:00~種生神社石段下集合
案 内 穐月 大介氏(伊賀市 ミュージアム青山讃頌舎学芸員)
定 員 9名 (予約制)
参加費 700円 (伊賀市 ミュージアム青山讃頌舎観覧券付)
12月20日(土) 午前10時から青山ホール 電話0595-52-1109にて受付開始


【藤堂豊前家のあゆみ】 

藤堂高虎に召し抱えられ、江戸中期に伊賀付の藩士として伊賀国に居住するまでの藤堂豊前家の歩みを「系図」「由緒書」などの古文書から紐解きます。 また、残された詳細な屋敷絵図から邸地であった上野城二之丸の全容について紹介します。 

藤堂高次書状/寛文6(1666)年11月17日

藤堂豊前家の4代有泰の跡目相続を認める書状。放であった父秋綱(3代)の行状を戒め、祖父正綱(2代)のように忠誠に励むよう諭している。

【現代語訳】
(端裏書「三人」)
一、四郎右衛門(秋綱・三代)の件については、酒を飲むことばかりで、役に立たない点も二、三見受けられた。しかしながら、先代四郎右衛門(正綱・二代)はよく奉公してきたため、その点は咎めることなく、先代四郎右衛門にたし跡目を継がせることとした。あわせて、組鉄砲衆も付け置いた。
立脇(有泰・四代)は誠実ではあるが、いまも先代四郎右衛門のことを忘れていないため、跡目については相違なくこれを認める。
今後、酒飲みの作法が悪ければ、地行を取り上げることもあるので、この趣旨をよく言い聞かせること。

(裏書)
一、長次郎左衛門の跡目は、その子に継がせるものとする。
十一月十七日

藤堂高久書状

天和3(1683)年11月27日藤堂豊前家の5代広雄の跡目相続を認める藤堂仁右衛門宛の書状。
造酒丞(広雄)に3000石、弟である小十郎に1000石を与えています。

【現代語訳】
藤堂高久書状(藤堂仁右衛門宛)
先日申し送ったとおりである。
四郎右衛門の件については、亡くなったことを誠に不憫に思う。役目については、これまでよく励んで勤めてきた者であるので、このたび跡目の件として、
一、三千石を造酒之丞(みきのじょう/広雄)に、
一、千石を小十郎に、
右のとおり、相違なく申し付けた。
四郎右衛門の家は、代々番頭を命じられてきた家柄であり、そのうえ造酒之丞は年若ではあるが、生まれつき資質も良く、役目も十分に勤められると見込まれる。
よって、四郎右衛門が預かっていた侍組についても、そのまま造酒之丞に申し付ける。以上の趣旨を、よくよく申し渡すように。
和泉
十一月二十七日(花押)
藤堂仁右衛門殿

藤堂豊前家由緒書/天保9年(1838)閏四月二十九日、藤堂豊前広旧(松風庵一志)の署名と花押が有る

松風庵一志(広旧/ひろさと)が提出した同家の由緒書。5代広雄以降、代々「造酒丞/みきのじょう」を通名としていた同家では、天保3(1832)年にに隠居した久居藩主が「造酒正」を名乗ることになったのを憚って一志が「豊前/ぶぜん」に通名を改めたとある。

藤堂豊前家屋敷平面凶
簡易な描写ながら彩色のある平面図。

享保10(1725)年6月に伊賀付を拝命する。広雄が伊賀で与えられた邸地は、上野城の「二之丸」と呼ばれた場所で、現在の旧桃青中学校あたりに位置する。当初は本丸東北側の防御を固める曲輪として藤堂一族・重臣が居住した場所である。豊前家は広雄の居住以降、幕末まで二之丸を拝領することになる。

跌黒漆塗切付札紺糸威二枚胴具足

藤堂豊前家に伝わる甲冑

【松風庵一志の人物像】 

武家として、あるいは藩士として一志が残した功績を藤堂豊前家に残された「武芸書」などともに紹介します。また、一志が妻と交わした書状などから見えてくる一志ならではの人生観や世界観を探求します。 

無辺無極流太刀合鎗口伝(文政2(1819)年8月)

槍術の流派である無辺無極流の口伝書。藤堂豊前家の歴代当主が印可(技芸を身につけたことの証明)を受け、巻末に松風庵一志(豊前広旧)の幼名である「義五郎」の名前を確認できる。

藤堂豊前広旧書状(弘化4(1847)年〕9月9日)
松風庵一志(豊前広旧)が、孝明天皇即位にかかる藤堂藩の使者を務めた際、京都から妻於延に宛てた書状。

子息である錬之介(後の広立)の様子を気にする記述が何度も見られる。

【現代語訳 】

「(京都にいる私の方は変わりありませんが、)錬之介もきっと無事に毎日を過ごしていることでしょう。(日々の)読書、あるいは武芸の稽古、そのほか「もず山(?)」からも、さぞかしやかましく(厳しく)言われていることと察しております。 

〈中略〉 

このお菓子は道中でいただいたものですが、錬之介へ送ります。いよいよ精を出して励むよう(私に代わって)言い聞かせてやってください。 

〈中略〉 

追伸、錬之介の教育(仕込み)についても、あまりに毎日毎日、叱りすぎてはいけません。叱ることが常態化して(口うるさくなって)しまうと、本人の心に響かなくなってしまいます。その事を特に申し上げます。かしこ(敬具)」

一志の妻於延(のぶ)が送った器と於延が器を贈る際に添えた直筆の和歌〈軸)「ときはなるまつのみとりの いくちとせきみもろともにはるをかさねよ」

左は一志の妻祥源院(藤堂於延)墓碑銘。撰文は藩校有造館の学である斎藤拙堂、書は藤堂藩士で書家の井野勿斎

【松風庵一志の作品と作風】 

一志の茶碗や香合などを展示し、その特徴を解説します。一志の作品に魅せられた人物たちによる作品評、作品に付された銘の由来なども紹介します。 

松風庵一志の楽焼

松国庵一志が製作した楽焼は、作為のない自由な作風が特徴である。見込みが広くて深く、腰や胴部の温かい丸味をもった造形は、泰然とした落ち着きを感じさせる。

作品の多くは装飾のない素朴な作りであるが、幾つか絵付けを施したものや、文字を入れた作品も残されている。作品には、高台や高台脇に「志」の丸印が押されているものが確認でき、京都の陶工楽家の「楽」の印に景響を受けたものと思われる。また、丸印のほかに花押が刻まれているものも確認できる。

また、一志が残した箱書に「我白鳳之土をもちて造」との文言が見られることから、楽焼の原料となる土は「白鳳城」の異名をもつ上野城内のものを用いていたことがわかる。

なお、和6(2024)年に藤堂豊前家のご子孫より寄贈された作品の木箱には、蓋に同家の当主であった広宣氏による一志の来歴が認められている。同家において、一志とその作品が大切に伝えられてきたことを物語っている。

松風庵一志茶碗「二之丸」/陶芸家 菊山 当年男が昭和16年に命銘
松風庵一志茶碗「古稀」

四言絶句が書かれています。残念ながら一志は古稀(70歳)を迎えられませんでした。

【原文】
古稀有餘 再為童児
隨発心慮 全自在者

【現代語訳】
七十の齢を越え、
ふたたび童子の心に立ち返る。
湧き起こる心のままに従い、
まったく自由自在の境地にある。

松風庵一志 展 -藤堂豊前家と楽焼の魅力- 

2024(令和6)年に藤堂豊前家で大切に守り伝えられてきた貴重な歴史資料が伊賀市教育委員会に寄贈されました。 そのなかには「伊賀楽」と呼ばれる松風庵一志(藤堂豊前広旧)の作品が含まれています。 本展では、藤堂豊前家と豊前家の当主であった一志の足跡を振り返ることで、その人物像と自由な作風の根源に迫ります。

茶碗「くれは川」

松風庵一志(藤堂豊前広旧) 墓碑銘を紹介します。

【現代語訳】
松風庵一志(藤堂豊前広旧)墓碑銘

 君の諱(いみな)は広旧(ひろさと)、字(あざな)を士故という。別号を椿堂と称し、はじめ造酒之丞(みきのじょう)と名乗り、のちに豊前(ぶぜん)と改めた。幼名は義五郎、姓はもと橋本氏であったが、藤堂の姓を賜った。父は等観君(諱・広業)、母は橋本氏、祖父は浄観君である。

 君は寛政六年(一七九四)正月十一日、伊賀城下の邸に生まれた。文政元年、父・等観君が老齢となったため、家督を継いで三千五百石を任じられ、高禄累進して番頭となった。

 七年二月、大府(江戸幕府)より先公(前藩主)に鶴を賜るにあたり、使者として江戸に赴き、拝受して帰国した。その功により、時服(じふく)を賜った。弘化四年には、今上天皇の即位を賀するため、再び使者として入京し、帰命ののち、同じく時服を賜った。嘉永四年には、志摩・伊賀沿海の防備地を巡視する役を命じられた。

 藩主が伊賀に入部するたび、しばしば君の邸を訪れ、多くの衣類や品物を賜った。万延元年六月、病にかかり、長く床に伏し、文久二年三月十一日、六十九歳で没した。城南の山渓寺に葬られ、先祖の墓域に並ぶ。戒名は覚聖院。配偶者は藤堂氏で、祐倉公の末娘である。

 子は二男二女をもうけたが、長男と一女は早世した。次男・広立が家督を継ぎ、家禄を相続して番頭に任ぜられた。ほかに庶出の男女がそれぞれ一女ずつあった。

 君は武芸を好み、弓術・鉄砲・刀術・拳法に至るまで、いずれも奥義を極めた。平素より身分の低い者にも情け深く接し、侍女や僕従はその恩に感じ、年季が尽きても去るに忍びず、引き続き仕える者も多かった。老年に至ってもなお、隊士を訓練し、山野に分け入って野営を行い、厳寒や酷暑をもいとわなかった。

 安政元年の大地震で城郭が大きく損壊した際、官命により修築が行われると、君は自ら隊士や家臣を率い、土木資材の運搬などにあたって工事を助けた。隊士・家臣はいずれも命令に従い、争って奔走し、怠る者はなかった。君の恩と威が並び立っていたためである。

 余暇には点茶を楽しみ、また楽焼の窯にならって陶製の茶碗を作った。君は若いころより密かに兵法・韜略を究め、勇んで先鋒を務めた武人であったが、その一方で、このような閑雅風流の趣も備えていた。まさに張るべきときと弛むべきときを得た人物と言うべきである。隊士が楽しみつつ倦まずに仕えたのも、もっともなことであろう。

銘に曰く。

上に仕えては敬い、下を率いては寛やかで、身を慎み、人を治め、人と交わり、武を練り励み、功を立てるに足る人物であった。どうして天はその命を惜しまれたのか。長く国の干城(守り)となるべきであったのに。

国校督学 川村尚迪 撰 速水受益 書